マーティン・スコセッシ『タクシードライバー』(1976)
乳首なし
濡れ場なし
シビル・シェパード!ジョディ・フォスター!乳首を見せろ!
この映画、乳首チャンス(もしかしたら乳首が見えるのではないか?というシーンのことを俺は乳首チャンスと呼んでいる)が2つある。
1つ目はいい感じにデートした選挙スタッフの女、ベッツィー。
2つ目は12歳の売春少女、アイリス。
なぜ乳首を見せてくれなかったのかを、ストーリーを紹介しつつ書いていく。
舞台は1970年代ニューヨーク。ベトナム戦争復帰兵の主人公、ロバート・デ・ニーロ扮するトラビスは帰国後、タクシードライバーになる。客を乗せ運ぶ、それだけで毎日が流れていく平凡な日々。そんな中、パランタイン議員の選挙スタッフ、ベッツィーに一目惚れする。ベッツィーをナンパしたトラビス、2回ほど食事をするも...あまり会話が噛み合わない。それもそのはず、ベッツィーは知的な女性だがトラビスには学がない。ある夜トラビスは映画館へ誘う。一緒に観た映画はなんとポルノ映画。これにはベッツィーもブチ切れ。かくしてトラビスはフラれ、ベッツィーの乳首を見ることができなかったのである。まだセックスもしてない女とポルノ映画を一緒に観に行くのはあかんかったなあ...とトラビスは反省。するわけではなかった。この男、ベッツィーに対して怒りくるう。なんで電話に出んのや、謝ったのに許してくれへんやんけ、君のような人間は死んで地獄に落ちろ!と職場にまでおしかけて怒鳴りつける。ここに全く自省をしないトラビスの人間性がみえる。俺は悪くない。女が悪い。実にジメジメしていて、陰湿。おたくっぽい。
ベッツィーへの失望は社会への失望へとスケールしていく。ベッツィーがスタッフをしているパランタイン議員の暗殺を企てる。完全にルサンチマンである。だがこれもバレかけて取りやめ。次に目をつけたのは社会の最底辺、ポン引きのギャング。そこで12歳の売春少女アイリスと会うのだが...。トラビスは金を払うもアイリスとはセックスせず、延々と説教するだけ。だから乳首は見えない。両親のもとへ戻ったほうがいい、君はギャングに騙されている、本当は家に帰りたいんだろう?という必死の説教もアイリスには糠に釘だった。
どこにいても俺には寂しさがつきまとう
バーや車 歩道や店の中でもだ
逃げ場はない
俺は孤独だ
ベトナム戦争から復帰したのに何も楽しいことはない。女からはフラれる。トラビスのような失うものがなにもない人を、今世間では無敵の人と呼ぶのだろう。だが誰でもそうなりうる。無敵と呼ぶことが分断を加速させる。決して他人事ではないのだ。自責から逃れたトラビスは社会の悪へとヘイトを向けるが、空回りしてしまった。乳首を見なかった1人の男の悲しく寂しい生き様である。