イ・チャンドン『バーニング』(2018)

乳首あり

濡れ場あり

 

 

劇中ではチョン・ジョンソ扮するヘミが乳首を見せてくれる。このチョン・ジョンソは当作品が初の出演作品であり、女優としてのデビュー作でいきなり乳首をみせたということになる。このヘミが特徴のある美人で、劇場で乳首を見せてくれたとき俺は感激のあまり声を漏らしてしまった。あそこも勃った。

 

 

当作品『バーニング』は村上春樹の短編小説『納屋を焼く』(1983)を原作にしてイ・チャンドンが2018年に映像化した作品である。原作自体が純文学作品なので、犯人さがしや謎解きというのは主たる内容ではない。 村上春樹作品の特徴として、メタファーが多く、ストーリー展開が必ずしも分かりやすいものではないというのがあって、そこに注意して観ないとミステリー映画として『バーニング』を消費することになる。それは間違いだ。『バーニング』はミステリー映画ではなく、淡くて切ない乳首映画である。

 

 

運送業のバイトをしながら作家を目指す主人公のイ・ジョンスは街で幼なじみのヘミと再会する。美容整形をしていてすぐにヘミとは分からなかったジョンスだが、そのあと居酒屋で昔話をするうちに打ち解け、流れでヘミの家へ。童貞ジョンスとヘミがエッチするシーンは、ジョンスがコンドームを着けるのに戸惑っているシーンが実に生々しく、リアルで興奮する。あとヘミの乳首が黒くて長い。いいですね。

 

 

2人はこのまま愛し合って終了というわけにはいかない。ヘミは生きる意味をもとめてアフリカへ。 数週間後、アフリカから帰国するヘミを空港で待つジョンス。しかしヘミの隣には見知らぬいけ好かない男が。名前をベンと名乗るその男は、ジョンスとは違いお金持ちで、2人より少し歳が上らしい。ベンとヘミの距離感にとまどうジョンス。それもそのはず、数週間ぶりにヘミの乳首が見えると思ってワクワクしながらでかいトラックを空港まで動かしてきたのに、それが叶いそうにない。結局それ以降ジョンスはヘミとセックスすることはできなかった。ヘミとジョンスはどんどんすれ違っていく。

 

 

最終的にヘミは姿をくらませることになる。それがベンの仕業かどうかは分からないが、それを知ったジョンスはベンを殺してしまう。

 

  

田舎の限界を悟り、憧れを抱いて都会へと越してきたヘミ。

ヘミはそこで希薄な人のつながりしか見ることができなかった。

生きる意味も失い、消えてしまいたいとまで言った。

 

一方、田舎が荒廃していくのに必死に抵抗したジョンス。

唯一の希望だったヘミをそこまでさせた都会と都会的なベンが許せなかったのだろう。 

 

 

2人の若い男女の行き違いが淡く、切ない乳首映画だ。

 

 

バーニング 劇場版 [Blu-ray]

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ダーレン・アロノフスキー『マザー!』(2017)

乳首あり

濡れ場あり

 

 

お待たせしました乳首あり。ジェニファー・ローレンスのすばらしい乳首を楽しめる作品。驚かないでほしい。なんと劇中、ジェニファー・ローレンスはずっとノーブラ。これは前回話した乳首チャンスなんて生やさしいものじゃない。パチンコでいうとずっと確変、野球でいうとずっと満塁ということである。これを観て以降俺はジェニファー・ローレンスのことをジェニファー・エローレンスと呼んでいる。エローレンスありがとう。

 

 

主軸のストーリーとしては、田舎の一軒家に作家のハビエル・バルデムとその若奥様エローレンスが住んでいて、そこへ次々と訪問者があらわれ、2人や家をメチャクチャにしていくというサイコホラーであるが、これはハビエル・バルデム(めんどくさいので以下ハビエル)を神、エローレンス(めんどくさいので以下エロ)とその家を地球として、旧約聖書新約聖書になぞらえた内容の映画である。ハビエルが招き入れたその老夫婦の訪問者がアダムとイブのメタファーであり、その息子たちや次々にくる訪問者がエロと家をめちゃくちゃにしていく様は、人間たちが地球の環境を破壊していることを示唆している。物語中盤にハビエルとエロがセックスをして生まれる子ども、これはキリストのメタファーだ。

 

 

そしてこの乳首にはストーリー上意味がある。タイトルの「マザー!」の通り、この映画でエローレンスはキリストを生み、母性の象徴として描かれるわけなので、それを強調するために乳首をノーブラで見せ続けている。母性の象徴として描かれるという免罪符を手にエローレンスの乳首が見えるとは、いい時代に生まれてこれた。

 

 

エローレンスの乳首が初めて見えるのは2:38あたり。ノーブラで白いワンピースを着ているのでその乳首がくっきりと浮かび上がっているのである。what a エローレンス。ちなみに監督のダーレン・アロノフスキーはエローレンスと交際していた。なんともけしからん乳首映画である。

 

 

 

 

 

マザー! (字幕版)

マザー! (字幕版)

 

 

 

 

 

 

 

マーティン・スコセッシ『タクシードライバー』(1976)

乳首なし

濡れ場なし

 

 

シビル・シェパードジョディ・フォスター!乳首を見せろ!

この映画、乳首チャンス(もしかしたら乳首が見えるのではないか?というシーンのことを俺は乳首チャンスと呼んでいる)が2つある。

1つ目はいい感じにデートした選挙スタッフの女、ベッツィー。

2つ目は12歳の売春少女、アイリス。

なぜ乳首を見せてくれなかったのかを、ストーリーを紹介しつつ書いていく。

 

 

舞台は1970年代ニューヨーク。ベトナム戦争復帰兵の主人公、ロバート・デ・ニーロ扮するトラビスは帰国後、タクシードライバーになる。客を乗せ運ぶ、それだけで毎日が流れていく平凡な日々。そんな中、パランタイン議員の選挙スタッフ、ベッツィーに一目惚れする。ベッツィーをナンパしたトラビス、2回ほど食事をするも...あまり会話が噛み合わない。それもそのはず、ベッツィーは知的な女性だがトラビスには学がない。ある夜トラビスは映画館へ誘う。一緒に観た映画はなんとポルノ映画。これにはベッツィーもブチ切れ。かくしてトラビスはフラれ、ベッツィーの乳首を見ることができなかったのである。まだセックスもしてない女とポルノ映画を一緒に観に行くのはあかんかったなあ...とトラビスは反省。するわけではなかった。この男、ベッツィーに対して怒りくるう。なんで電話に出んのや、謝ったのに許してくれへんやんけ、君のような人間は死んで地獄に落ちろ!と職場にまでおしかけて怒鳴りつける。ここに全く自省をしないトラビスの人間性がみえる。俺は悪くない。女が悪い。実にジメジメしていて、陰湿。おたくっぽい。

 

 

ベッツィーへの失望は社会への失望へとスケールしていく。ベッツィーがスタッフをしているパランタイン議員の暗殺を企てる。完全にルサンチマンである。だがこれもバレかけて取りやめ。次に目をつけたのは社会の最底辺、ポン引きのギャング。そこで12歳の売春少女アイリスと会うのだが...。トラビスは金を払うもアイリスとはセックスせず、延々と説教するだけ。だから乳首は見えない。両親のもとへ戻ったほうがいい、君はギャングに騙されている、本当は家に帰りたいんだろう?という必死の説教もアイリスには糠に釘だった。

 

 

どこにいても俺には寂しさがつきまとう

バーや車 歩道や店の中でもだ

逃げ場はない

俺は孤独だ

 

 ベトナム戦争から復帰したのに何も楽しいことはない。女からはフラれる。トラビスのような失うものがなにもない人を、今世間では無敵の人と呼ぶのだろう。だが誰でもそうなりうる。無敵と呼ぶことが分断を加速させる。決して他人事ではないのだ。自責から逃れたトラビスは社会の悪へとヘイトを向けるが、空回りしてしまった。乳首を見なかった1人の男の悲しく寂しい生き様である。 

 

 

タクシードライバー (字幕版)
 

 

スタンリー・キューブリック『時計じかけのオレンジ』(1971)

乳首あり。

濡れ場あり。

 

乳首の大祭り。手っ取り早く乳首を摂取したい人向けに作られた映画。劇中では、白人の様々な乳首が堪能できる。乳輪が極めて小さい乳首、ピンク色の乳首、長い乳首。人生の数だけ乳首があると思い出させてくれる。

 

舞台は近未来のロンドンということだが、監督のスタンリー・キューブリックはあまりいい未来を思い描いておらず、全体主義の政府による管理社会下でバイオレンスとセックスにまみれた荒廃した近未来を当作品で映像化した。主人公のアレックスのような強姦魔は、先進国では数字上減少傾向にあるが、インターネット空間に目を向けてみると、自分が正義だと信じて疑わない人が言葉の暴力をふるうのは日常茶飯事だし、手元のスマホからエロの2文字を検索するだけで無料のオンラインポルノにすぐアクセスできることも俺たちはよく知っている。形こそ違えど、概ねキューブリックが想像した世界に近いのではないかなと思う。

 

1970年代は冷戦真っ只中で、資本主義と社会主義、善と悪のようなわかりやすい二項対立の構図が多くの映画やドラマで採用された中、キューブリックはその単純化した世界観に警鐘を鳴らす。主人公のアレックスは強姦魔だが、更生装置により暴力ができない体にさせられて社会に復帰、今度はいじめられることになる。序盤で暴力・強姦を繰り返していた彼だが、無惨にいじめられるシーンを見せられるとなぜかつい同情してしまう。正義か悪かという単純な二分法的価値観がいかに脆いかということを不気味な世界観で教えてくれるのが当作品の魅力でもある。

 

ちなみに乳首初登場シーンは5:26頃。早すぎる。

その後も含めて合計8人の乳首、16乳首が136分の上映時間の中で現れることになる。

単純計算で8分30秒に1回1乳首が見えるということになる。

あなたも時計じかけのオレンジで自分好みの乳首を見つけてみましょう。

 

 

 

 

 

フランシス・フォード・コッポラ『ゴッドファーザー』(1972)

乳首あり。

濡れ場あり。

 

物語中盤に主人公、アルパチーノ扮するマイケル・コルレオーネが、ソロッツォ殺害の容疑から逃れるためにシチリアで逃亡生活を過ごす中で一目惚れしたアポロニアとのベッドシーン。盛大な結婚式を終えた2人はその夜、静寂に包まれた部屋で無言のまま見つめ合う。露出多めのアポロニアのキャミに興奮したマイケルがまずは額にキッス。そしてディープキッス。アポロニア、自分から白いキャミを脱ぐ。ついに露わになるアポロニアの乳首!色素が薄い。色素が薄いとピンクだとか、いいイメージを想像しがちではあるが、そうでもない。本当に薄すぎて、肌色と境目が分かりづらい。それが本当に乳首なのかどうか理解するのに俺はかなりの時間を要した。Netflixでは何度も巻き直せたからいいものの、映画館で見るとものすごく分かりにくく、集中力を使うので要注意。シチリアの女はみんな乳首の色素が薄いのだろうか。それともイタリア系はみんな乳首の色素が薄いのか。興味は尽きない。

 

そしてこのアポロニアの色素薄め乳首見せシーン以降、コルレオーネ家は転落の一途をたどっていくこととなる。

 

アポロニアの爆死。

コルレオーネ家長男であるマイケルの兄ソニーの惨殺。

アポロニアの色素薄め乳首をピークにして、この映画はどんどん暗くなっていく。

 

ゴッドファーザーという映画は、アポロニアの色素薄め乳首シーン以前と以後では大きく変わっていく。

 

 

ちなみにアポロニアの初登場シーンは1:39:40 あたり

アポロニアが乳首を見せるシーンは1:52:30 あたり

アポロニア爆発死のシーンが2:06:11 あたり

 

 

アポロニアは登場後15分も経たずして観客に乳首を見せ、その後15分も経たずに死んでいくことになる。完全に乳首要員だ。座ってボーッとしてたら痴女が騎乗位してきてすぐにどっか去っていくような忙しさ。アポロニアは、乳首だけ見せに来て爆死していったシチリアの女というイメージであり文脈的なエロスはあまりない。

 

何なら罪悪感に苛まれるので何度も見れるシーンではない。ちなみに俺は10回は見たしちゃんと抜いた。